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「多くをゆるされた者として」 ルカ7章36〜50節
「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」
テモテへの手紙第一1章15節


シナイ山、山頂からの8月22日の日の出
 本日の聖書個所には、二人の人が登場いたします。彼らは、共にイエスさまの噂を聞いてイエスさまに関心を持った人たちです。一人は、パリサイ人。もう一人は、罪深い女です。この二人が、イエスさまに関心を持ち、イエスさまとのコンタクトを持ちます。
 まず、あるパリサイ人が、イエスさまといっしょに食事をしたいということで、イエスさまを自分の家に招きました。パリサイ人とは、律法の教えを厳格に守り、また、先祖たちの言い伝えを守る人たちで、イエスさまを神の子、救い主とは、認めない人たちでした。しかし、このパリサイ人は、どういうわけか、イエスさまを食事に招きました。恐らく、最近、人々の注目を集めているイエスさまに、興味を持ったのでしょう。
 イエスさまに関心を持っていたのは、パリサイ人シモンだけではありませんでした。シモンの家で行われた食事の席に、一人の罪深い女がいました。イエスさまが、シモンの家に招かれたことを知って、やってきたのです。
 すると、彼女は大胆な行動に出ました。香油の入った石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗ったのです。
 彼女の行動は、パリサイ人シモンにとっては、許せないものでした。パリサイ人たちは、厳格に律法を守る人たちでしたから、預言者と言われている者が、罪深い、不道徳な女性に触れるなどということは、決してあってはならないと考えていたからです。
 皆さんは、彼女のイエスさまに対する行動を見て、どのように感じられるでしょうか。こんなことまでしなくても、そのように思われる方もいるかもしれません。しかし、彼女がイエスさまにしたことは、当時の慣習に従うものでした。
 当時、お客をお迎えする時は、まず、家の主人が、客の肩に手を置いて、平安を祈願する意味で、接吻をしました。次に、客の足を洗いました。さらに、少量の香料がたかれるか、ばら油が一滴、客の頭上に注がれました。これらは、お客が来た時には、当然、なされるべき礼儀作法だったのです。
 罪深い女は、イエスさまが、シモンの家に入って来られた時から、ずっと見ていたのでしょう。主人から口づけもされず、足も洗ってもらえない。香油も注がれない。そういったことに心を痛めたのでしょう。シモンにとっては、よけいなことかもしれませんが、彼女にとっては、自分の愛してやまないイエスさまが、そのような扱いを受けることに、耐えられなかったのです。
 さて、イエスさまに関心を持ったパリサイ人シモンと罪深い女ですが、この両者には、どのような違いがあったのでしょうか。まず、シモンですが、彼は、イエスさまに対して、好意を持っていました。それは、イエスさまをお客として招いたということやイエスさまを「先生」と呼んでいることからも分かります。しかし、彼は、自分が罪人であることに気づいていません。ですから、罪人の友となって下さるイエスさまの恵みに触れることができないのです。単にイエスさまに対する好意以上にはならないのです。
 そして彼は、罪人の友となって下さるイエスさまへの感謝もないのに、イエスさまをもてなそうと食事に招いたのです。これは、私たちも気をつけなければならないことです。自分が罪人であり、罪ある自分を赦して下さったという感謝の心もないまま、形だけ奉仕をしてしまう危険です。イエスさまへの好意から生まれる奉仕。こういう奉仕は形だけの奉仕なので、長続きはしません。本当の奉仕とは、こんな罪深い私のために、イエスさまが十字架にかかって死んで下さったというその感動と感謝からの奉仕でなければなりません。
 罪深い女は、どうだったでしょうか。彼女は、イエスさまが、罪人の友であることに、心から感謝し、感激していました。その感謝と感激をもって、イエスさまへの奉仕をしました。自分の出来る精一杯のことを行うことで、イエスさまへの愛を示しました。彼女は、イエスさまへの愛のゆえに、人目を恐れることなく、勇気のある行動をとりました。そして、イエスさまも、その罪深い女の奉仕を、心から喜ばれたのでした。
 皆さんも、イエスさまに関心をよせていると思います。しかしイエスさまに対する関心の寄せ方にも、色々な寄せ方があるのです。シモンのように、ただ、好意をいだいて食事に招く、そのようにイエスさまとの関わりを求める。そういう関わり方がひとつあります。
 もう一つの関わり方は、イエス・キリストを罪からの救い主として認める関わり方です。自分は、罪人であり、イエスさまは、その罪を赦して下さるお方である。そのような関わり方です。
 皆さんには、自分が罪人であるという自覚があるでしょうか。クリスチャンになる上で、この罪の自覚がとても大切です。どうしてでしょうか。本日の暗唱聖句にありますように、イエスさまは、罪人を救うためにこの世に来られたからです。
 イエスさまは、素晴らしいお方です。しかし、罪の自覚のない人を救うことはできません。罪の自覚のない人にとっては、イエスさまの十字架は意味がないからです。自分がどうしようもない罪人であることが分かると、イエスさまの十字架が自分のこととしてとらえ、イエスさまの十字架によって解決をいただこうということになるのです。しかし、自分が正しい人間、また、自分で生きて生けると思っているうちは、イエスさまを模範者として、好意を持つことはできるかもしれませんが、それ以上ではありません。
 本日の暗唱聖句個所は、パウロがテモテに送った手紙の一節です。この御言葉の続く件で、パウロは自分がどのような者であるかを語っています。パウロは、「私は罪人のかしらです。」と告白しています。パウロは、どうして救いに導かれたのでしょうか。また、どうして素晴しい奉仕を主におささげすることができたのでしょうか。それは、罪の自覚が深かったからではないでしょうか。私たちも、罪深い女、そしてパウロのように、罪の自覚へと導かれ、イエス・キリストを救い主として信じ、その罪を赦して下さったイエスさまを愛し、主に喜ばれる奉仕をささげていきたい。そのように願わされます。 
  (8月29日 礼拝説教要旨)