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「嵐を静めるイエス」ルカ8章22〜25節
「恐れるな。私はあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。」
イザヤ書41章10節


早朝のガリラヤ湖上からカペナウムの町を見る。
 ある日のこと、イエス様は、弟子たちといっしょに舟に乗りました。イエス様は弟子たちに言われました。「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」弟子たちは、イエス様が言われた通りに、舟を沖に出しました。
 ところが、「突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。」とあります。ガリラヤ湖は、その水面が地中海よりも低く、その周りは、高い山に囲まれています。そのために、周囲の山々から、冷たい空気が、蒸し暑い湖面に吹き降ろしてきて、突然暴風が起こることがありました。
 弟子たちは、あわてました。彼らは、イエスさまを起こし、イエス様に大きな声で、叫ぶように言いました。「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」 この弟子たちは、すべてではありませんが、以前、漁師をしていた人たちでした。ところが、この時の激しい暴風は、これまで経験したことのなかったものだったのでしょう。彼らの経験、力、知恵によっても解決できない事態でした。
 イエス様は、どうされたのでしょうか。「イエスは、起き上がって、風と荒波をしかりつけた。」とあります。イエスさまは、何と、荒れ狂う風と波をしかりつけたというのです。「すると風も波も収まり、なぎになった。」とあります。ほっと安堵の気持ちでいる弟子たちに対してイエス様は、言われました。「あなたがたの信仰は、どこにあるのです。」
 さて、イエス様は、この出来事を通して、弟子たちに何を教えようとされたのでしょうか。また、私たちは、この出来事を通して、何を学ぶことができるのでしょうか。  まず、第一のことは、弟子たちが、嵐にあったように、私たちの人生の中にも、嵐に出会うことがあるということです。それは、家庭内における嵐かもしれません。仕事上のことかもしれません。地域のことかもしれません。
 時々、クリスチャンになると、何の問題も起こらなくなる。そのように考える人がいますが、残念ながら、そうではありません。もちろん、クリスチャンになることによって解決される問題もあります。それは、罪と死という問題です。自分の罪を悔い改め、イエス様を救い主として信じる信仰によって、私たちには、罪の赦しが与えられます。神の子どもとされ、永遠のいのちが与えられます。死んだ後、天国へ行くことができるのです。しかし、だからと言って、クリスチャンになったら、何の問題もなくなるということではありません。
 この出来事を通して、教えていただける第二のことは、そのような嵐の時に、私たちの信仰が試されるということです。嵐にあったとき、彼らは、どうしたでしょうか。イエスさまを起こして、イエス様に何とかして下さいとお願いしたのです。
 今の私たちで言えば、お祈りをしたのです。ところがイエス様からは、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われました。このイエス様のお言葉は少しおかしいとは思いませんか。私たちも、困ったことが起こり、試練に遭遇した時に、イエス様に何とかしてください。と祈ることがあります。そのような時に、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われたら、どのように気持になるでしょうか。
 これは、どういうことなのでしょうか。弟子たちは、イエス様に助けを求めています。しかし、彼らはイエス様を心から信頼しているかというと、そうではないのです。口では助けを求めています。しかし、イエス様が助けてくださると信じているかというとそうではありません。それは、25節後半を見ると明らかです。「弟子たちは驚き恐れて互いに言った。風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方は、どういう方なのだろう。」とあります。つまり、彼らは、イエス様を信頼して、イエス様に、何とかしてくださいとお願いしているのではなく、どうにもならない状況にあって、イエス様にその不満をぶつけているだけなのです。
 さて、第三に教えられることは、不信仰に陥っている弟子たちを、イエス様は、どの様に扱われたでしょうか。「あなたがたの信仰は、どこにあるのです。」と言われましたが、決して、彼らを見捨てることはなさいませんでした。イエス様は、彼らの願いを聞き入れて、嵐をしかりつけて、彼らを救い出されました。
 最後に、私たちが、そのような嵐にあった場合は、どうすれば良いのでしょうか。どのように対処すれば良いのでしょうか。嵐にあった時、弟子たちが忘れていたことがあります。それは、全能であるイエス様が共におられるということです。そして、イエス様は、私たちが出会う、どのような問題にも解決を与えて下さるお方であるということです。
 私たちはいかがでしょうか。嵐に遭遇するとき、自分の力で、自分の考えで何とかしなければいけない。そのように考えて右往左往してしまうことはないでしょうか。しかし、人間の考えというのは、よさそうに思えても、墓穴をほったり、かえって悪い状況になったりすることがあります。
 嵐の時にこそ、静まって、全能の神様に信頼するのです。また、してはならないこともあります。それは、舟から湖に飛び込むこと、イエス様が、共にいて下さるのに、イエス様を離れてしまうことです。私たちにとって、最も安全な道はどこにあるのでしょうか。舟から荒れ狂う湖の中に飛び込むことでしょうか。そうではありません。舟の中におられるイエス様を信頼して、イエス様と共に歩むことです。
 嵐にあって喜ぶ人はいないと思います。しかし、嵐に会うことによって与えられる恵みもあるのです。嵐の中にあっても、主に信頼し、そこから救い出されることによって、私たちは、真実なイエス・キリストと出会うことができるのです。
 弟子たちが嵐にあったように、私たちも日々の歩みの中で、嵐にあうことがあります。しかし、そのような時にこそ、静まってイエス様に信頼したいと思います。最後に、一つみ言葉を読んで終わりにしたいと思います。「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』」(イザヤ書30章15節) 

      (10月24日 礼拝説教要旨)