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「ザカリヤとエリサベツ」ルカ1章5〜25節
「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。」
ルカの福音書1章13節


クリスマス
 今朝は、真面目に生きながらも、報いられない、一組の老夫婦にスポットを当てていきたいと思います。彼らの名は、ザカリヤとエリサベツです。彼らは、どのような人たちであったのでしょうか。
 ザカリヤは祭司でした。祭司とは、神様と人との間にあって、とりなし手としての職務が与えられていました。その職務は大きく二つあり、一つは、民を代表して、神様にいけにえをささげるということ。もう一つは、民に、神の契約や律法を教えるということです。
 ザカリヤの妻は、エリサベツとあります。彼女は、「アロンの子孫で」とありますように、祭司の家系でありました。すなわち、二人は理想的なカップルということが出来ると思います。
 二人は、理想的なカップルというだけでなく、「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。」(6節)とありますように、実生活においても、神様の前に、どうあるべきかを意識して、正しく生きていた夫婦でした。
 ところが、そんな二人ではありましたが、子どもがいなかったのです。妻のエリザベツは不妊の女であり、しかも、二人はもう年をとっていたと言うのです。
 子どもがいないということは、現代においても辛い現実だと思います。彼らの生きる時代には、現代のような社会保障制度はありませんでしたからなおさらです。また、辛い現実は、ただ単に経済的なことだけではありません。子がいないということは、当時「恥」だったのです。さらに、祭司職は世襲制でありましたので、子がいないということは、家業が断絶するということを意味しました。
 このように、彼らの置かれている現実は、まことに厳しいものでした。しかし、彼らは、愚痴や不平や不満を言うことなく、自分の置かれている境遇を嘆くことなく、ただひたすら、神様の御前に正しく生きる事を求めました。また、求めるだけでなく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていました。6節には、「ふたりとも」とあるように、ザカリヤだけではなく、エリサベツだけでもなく、「ふたりとも」であります。
 このように、何の希望の見えない現実が続いていました。しかし、神様の側ではすばらしい計画が備えられていたのです。そして、その計画が実行に移される時がやってきました。その計画は、二つあります。
 一つ目は、祭司ザカリヤに、くじが当たり、神殿に入って香をたく役目が委ねられたということです。神殿でささげる祭司の務めには、4つありまして、全焼のいけにえをささげるという役、穀物のささげものをささげる役、至聖所の火を守る役、そして最後が、香をささげる役でありました。この4つの務めの中でも、香をたく務めは、最も栄誉ある務めとされており、一度香をささげた者は、二度と同じ務めを果たすことができないとされていました。
 彼に対する神様の計画は、それだけではありませんでした。それは、妻エリサベツが男の子を産むということです。13節以降には、御使いによって語られた、約束の言葉が記されています。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。」とあります。このヨハネこそ、バプテスマのヨハネ。主イエス・キリストの道備えをする人物です。
 さて、私たちはこの出来事を通して、何を教えていただくことができるでしょうか。まず、私たちの信じる神様は、歴史を支配されている御方であるということです。また、その歴史の中で、人を用いられるお方であるということです。マリヤやヨセフを、ザカリヤやエリサベツを、またヨハネを。そして、私たち一人一人をも用いられるお方であります。
 何のために用いられるのでしょうか。それは、私たちの名前が有名になり、人々から崇められるためでしょうか。そうではありません。それは、後に続く者のためであります。表現を変えて言いますと、脇役を担うためであります。
 マリヤもヨセフも脇役です。ヨハネも脇役です。ザカリヤとエリサベツは、ヨハネの両親ということですから、脇役の脇役と言う事ができるでしょうか。神様のご計画の中での主役は、一人しかいません。それは、言うまでもなくイエス・キリストというお方であります。私たちの罪のために、救い主として御生まれ下さったイエス・キリスト。この方以外には、主役はおられないのです。
 ザカリヤとエリサベツが、子どもが与えられない、厳しい境遇の中にあっても、不平不満を言うことなく、主の御前に正しく歩み続けることができたのは、どうしてでしょうか。それは、彼らは、主役になろうという意識ではなく、脇役として、主にお仕えしていこうという思いをもって生きていたからではないでしょうか。
 もし、主役になりたいと願うのであれば、子が与えられない現実を受け入れることは難しかったと思います。厳しい現実の中にあっても、神の御前に正しく生き続けることができたのは、主の脇役として、自分に与えられた神様からの務めを、果たしていこうという心があったからだと思います。
 私たちも、この二人の姿勢に習う者とされたいと思います。自己愛から解放されて、主なる神様への愛に満たされて、主の脇役として用いられる者とされたいと思います。私たちは主役ではありませんが、私たちは主の脇役としては、無くてはならない存在です。私たちは、世界の基の据えられる前から、選び分けられた一人一人です。(エペソ1章4節) 
 また、イエス様の尊い十字架の犠牲により、救い出された一人一人であります。神様は、私たちを覚えて下さっています。ザカリヤの名の意味は、神は覚えておられるという意味です。ザカリヤを覚えておられた神様は、同様に、私たちをも覚えてくださっているのです。また、神様は、覚えるだけでなく、神様のご計画の中で、私たちをも用いようとして下さる方です。
 クリスマスを迎えようとしているこの季節、もう一度、主役はイエス・キリストであること。私たちは、脇役であり、脇役として、尊い、無くてはならない存在であること。これらの事を心に留めて、私たちのことを覚えて下さっている主に感謝しつつ歩ませて頂きたいと思います。 
                   
      (12月1日 祈祷会説教要旨)