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「カナン人の女の信仰」  マタイの福音書15章21〜28節
「求めなさい。そうすれば与えられます。」   マタイの福音書7章7節


「チューリップ」チューリップが咲くと春の到来を実感しますね
 本日の聖書箇所には、イエスさまに出会った人が登場いたします。カナン人の女性です。この女性は、大きな問題を抱えていました。自分の娘が悪霊にとりつかれていたのです。そして、その問題を解決してほしいと、娘にとりついている悪霊を、イエスさまに追い出してほしいと願いました。
 23節には、カナン人の女性の求めに対する、イエス様の応答が記されております。「しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。」とあります。イエス様は、カナン人の女性が、「私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」と必死にお願いしているのにもかかわらず、一言も答えることをなさらなかったのです。
 イエスさまは冷たい。このイエスさまの態度を、不思議に思われる方も多いのではないでしょうか。24節には、イエス様がカナン人の女性に、一言も答えられなかった理由が明らかにされています。「しかし、イエスは答えて、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません。』と言われた。」とあります。
 イエス様は、自分は何よりもまず、イスラエル民族の救いのために派遣されてきた。まず、イスラエル民族を救い、異邦人は、その次だとおっしゃられたのです。イエス様の冷たい態度は、そういうお考えに基づくものでした。
 この女性は、イエス様の冷たい態度に気落ちすることなく、25節にありますように、「しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、『主よ。私をお助けください。』」と言った。」とあります。
 このように執拗に願う女性に対して、決定的とも言えることを、イエス様は言われました。26節、「すると、イエスは答えて、『子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。』と言われた。」とあります。
 これは、たとえによる「なぞ」です。「子ども」とは、神の選びの民であるイスラエル人を指します。パンは神の救いの祝福です。そして、「小犬」はこの女性を指しているのです。イスラエル人は異邦人を軽蔑して、「犬」と呼んでいました。イエス様は、相手が女性なので、軽蔑的な口調をやわらげて「小犬」と言われたのでしょう。そして、暗に、この女性の申し出を断られたのでした。
 ところが、この女性は、そのイエス様の語られたたとえによるなぞを理解したのでしょうか。27節にありますように、「しかし、女は言った。『主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。』」と答えました。すると、イエス様は28節にありますように、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」と答え、彼女の願いを聞き入れられたのでした。
 さて、本日の出来事を通して、私たちは何を教えていただくことが出来るのでしょうか。第一のことは、彼女は、自分の願いをストレートにイエス様にお願いしているということです。私たちはともすると、自分の大事な事の中でも2番目、3番目、周辺のことは一生懸命お願いするのに、肝心のところは、神さまに祈ることを躊躇する。そういうことはないでしょうか。解決が与えられないことに対して、愚痴や不平不満を言うことがあります。しかし、素直な心で、神様に祈ることができない、そういうことが、あるのではないでしょうか。
 どうして、そのようなことになるのでしょうか。それは、このことに関しては、なかなか神さまにお委ねできないからではないでしょうか。自分では、何とかしてほしいのです。しかし、お委ねすることができない。結果を神様にお委ねできないのです。
 祈ると言うことは、ある面、恐ろしいことです。結果が明らかになるからです。御心が明らかになるからです。私たちも、人に何かをお願いする時、それを口に出してお願いすることに対して、躊躇することがあります。それは、お願いが断られてしまったら、自分の願い通りでなかったら、がっかりしてしまうからではないでしょうか。この女性は自分の願いを、素直に、また熱心に、イエス様の冷たい態度にも気落ちすることなく願い続けました。
 このカナン人の女性を通して教えられる第二のことは、彼女の謙虚さです。26節でイエス様から、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われました。
 普通であれば、こんなに熱心にお願いしているのに断られたのであれば、「せっかくお願いしているのに。もう二度と頼むものか。」と腹を立てることもあるでしょう。しかし、彼女は27節にありますように、「主よ。そのとおりです。」と、イエス様の言われたことを謙虚に受け止めているのです。
 私たちは、神さまの祈りの答えを、謙虚に受け止める者にならせていただきたいと思います。それが、自分の願いどおりであるかどうか。ではなくて、神さまのお心はどこにあるのか。そして、神さまのお心こそが、私たちに最善であると、受け止めることのできる信仰を持ちたいと思います。
 さて、第三に教えていただけることは、この女性の並々ならぬ霊的洞察力です。26節のイエス様が女性に語ったことばは、たとえによるなぞですが、彼女は、それを見事に理解したのでした。
 普通の人であれば、26節の言葉を語られたならば、もうそこで諦めてしまうのではないでしょうか。しかし、女は、「パン」すなわちイエス様の祝福は、子どもに与えても、足りなくなることがない。テーブルからこぼれるほどに豊かであることを理解することができたのです。イエスさまが与えて下さる祝福は、神様に選ばれたイスラエルの民が、先にいただいても、残りものであっても十分。そういう信仰を、カナン人の女性は、持っていたのです。
 私たちもさらに、神様の恵みと導きの中、さらに信仰の高嶺を目指して歩んでまいりたい。そのように願わされます。
  (3月6日 礼拝説教要旨)