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「パリサイ人とサドカイ人のパン種」 マタイの福音書16章1〜12節
「イエスは彼らに言われた。『パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。』」 マタイの福音書16章6節


八重咲きのバラ
 福音書を通して、イエスさまの生涯を学んでいきますと、イエスさまに関わる色々な人々が登場いたします。まず、イエスさまとの出会いによって、信仰が与えられて、新たな人生を始めた人たち。また、イエスさまによって、問題を解決してもらった人たち。さらに、別の目的をもって近づく人たちがいました。
 それは、パリサイ人やサドカイ人たちです。彼らは、どのような目的を持ってイエスさまに近づいて来たのでしょうか。ここに、「イエスをためそうとして」とありますように、イエスさまを試すためです。何と、イエスさまを試みるためにやって来たのです。
 パリサイ人とサドカイ人の信仰と教えには、それぞれ違いがあります。しかし、イエスさまに対する態度については共通点があるのです。どういう共通点でしょうか。それは、イエスさまを試すということにおいてです。
 しかし、考えて見て下さい。イエスさまは、人に試される立場にあるのでしょうか。そうではないと思います。イエスさまが、弟子や私たちを試すことがあっても、イエスさまが試される立場にあるのではありません。
 現在、二名の方が、洗礼準備クラスで学んでいます。そのクラスの中では、洗礼を受ける条件について学びます。洗礼を受けるには、どういう条件が必要なのでしょうか。二つあります。一つは、主を信じる信仰です。二つ目は、主に従う信仰です。
 主を信じる信仰とは、「イエス・キリストが、私の罪のために十字架にかかり、救い主となってくださったことを信じます。」という信仰です。主に従う信仰とは、「これからイエス・キリストに従って、生きていきます。」「聖書の教えに従って、生きていきます。」という信仰です。
 そして、私たちが主に従って行くということは、私たちは、イエスさまと主従関係にあるということです。イエスさまが主であって、私たちが従であるということです。この関係にあるということを常に意識することが、私たちの信仰生活にとって、とても大切なことなのです。
 イエスさまが主であるということは、聖書に書かれていることが「主」であるということです。私たちの考え、私たちの計画、私たちの好みは、「従」なのです。私たちは、試す立場ではなく、試される立場にあるのです。五千人の給食の奇跡の時、イエスさまは、ピリポに試して言われたとあります。また、イエスさまは公生涯を始める前、荒野で悪魔の試みを受けましたが、その時に、悪魔に対して、神を試みてはいけないと言われ、悪魔の誘惑を退けられました。
 つまり、イエスさまを試すということは、主従関係が逆転しているということなのです。イエスさまが「主」ではなく、自分が「主」となってしまう時、人は、このパリサイ人やサドカイ人たちのように、イエスさまを試す、そういう態度になってしまうのです。
 そして、いつまでもイエスさまが「主」ではなく、自分が「主」の人は、パリサイ人やサドカイ人たちのように、イエスさまに対する絶対的な信頼がありませんから、しるしを求めたり、イエスさまを試したりするのです。
 しかし、主従関係が確かになり、イエスさまに対して全幅の信頼をおく信仰者は、大変なことがあっても動じることなく、主の愛を信じ、主に従い続けることができるのです。  その良い例が家庭です。聖書では、家庭の主人は夫であると教えています。ところが、この世の中の家庭は、夫が「主」になるか、妻が「主」になるか。その決着がなかなかつかず、夫婦間の攻防が続いている家庭があります。しかし、そんな家庭も主従関係が定まり、お互いにその関係を受け入れることによって、攻防はおさまるのです。
 信仰も同じことが言えると思います。イエスさまの数々の奇跡を通して、イエスさまの御力を教えていただき、イエスさまを「主」として歩んでいこうと決断するならば、イエスさまにしるしを求めたり、イエスさまを試したりすることはなくなるでしょう。
 イエスさまは、しるしを求め続けるパリサイ人、サドカイ人の誤った態度に気をつけるように教えています。実は、以前にもパリサイ人は、イエスさまに対してしるしを求めているのです(マタイの福音書12章38節)。
 イエスさまとの関係が、主従関係にない人、イエスさまに対する信頼の心がない人は、パリサイ人のように、繰り返しイエスさまにしるしを求めるのです。自分の心に納得が与えられないからでしょう。
 皆さんの信仰は、どのような信仰でしょうか。しるしを求める、イエスさまを試す信仰でしょうか。それとも、イエスさまを、人生の主として受け入れ、イエスさまに全幅の信頼をおいて歩む信仰でしょうか。
 マタイの福音書16章13節以降には、ピリポ・カイザリヤにおいて、ペテロが信仰の告白をするという出来事が記されています。本日の聖書個所において、弟子たちは、イエスさまから「信仰の薄い人たち」と言われていますが、ピリポ・カイザリヤにおいては、素晴らしい信仰告白に導かれています。
 私たちは、まだ、本日の聖書個所の弟子たちのように、薄い信仰の人かもしれません。しかし、16章17節で、ペテロを信仰告白に導いたのは、イエスさまとあるように、私たちも今は、信仰の薄い者であるかもしれませんが、後に、主イエスさまを仰ぎ見ていく中で、素晴らしい信仰の告白へと導いていただきたいと願います。
 イエスさまの弟子たちは、信仰の薄い人だと、イエスさまに言われながらも、イエスさまと共にいたように、私たちもイエスさまと共に歩み、イエスさまの言葉に聞き続けるならば、弟子たちのように、信仰の頂きへと導いていただくことができるのです。(4月10日 礼拝説教要旨)