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「唯一の救い主」 マタイの福音書16章21〜28節
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、
私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」使徒の働き4章12節


チャービル(ハーブの一種)、セルフィルの名でフランス料理によく使われるセリ科の植物
 イエスさまは、ペテロの信仰告白を聞き、教会がどのように建て上げられていくのかを話した後、弟子たちに大切なことを告げています。
 これからエルサレムに行くということ。長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けるということ。さらに、殺されるということ。そして、最後に、よみがえるということ。死んで終わりというのではなく、3日目によみがえるということを、弟子たちに示し始められたのでした。
 22節以降には、そのイエスさまの言葉を聞いたペテロの反応が記されています。このペテロの言葉は、弟子が、師の身の上に降りかかる災難を案じて、愛を持って語った言葉でありましょう。
 ところが、イエスさまは、このペテロの言葉を聞いて、彼をしかり飛ばしたのです。「下がれ。サタン」と、ペテロをサタン呼ばわりしています。そして、「あなたはわたしの邪魔をするものだ。」と言い、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」とまで言われたのでした。
 憐れみ深いイエスさまにとって、これは、実に珍しいことでした。しかし、イエスさまは、師弟愛で物事を考えたり、人間的なメシヤ観で、イエスさまを理解することを許されなかったのです。それは、サタンの仕業であると言い切られたのでした。
 師弟愛、それも大切です。しかし、師弟愛に先立つものがあるのです。それは、神様を愛することです。隣人を愛する。これは、大切な戒めです。しかし、それに先立つ大切な戒めがあるのです。それは、神様を愛するということ、神様のお考え、神様のご計画を、まず第一にして、従っていかなければならないのです(マタイ22:36〜39)。
 ペテロは、その順序を間違えてしまったのです。イエスさまのことを心配するあまりに、父なる神様のご計画をないがしろにしてしまったのです。というよりも、ペテロは、イエスさまが十字架の道を進まれることが、父なる神様のご計画であるということが分からなかったのでしょう。
 このペテロの犯した過ちは、私たちも気をつけなければいけない事柄です。神中心か、それとも人間中心か。人のことに配慮するあまりに、まず神様を愛し従うことを忘れてしまうことがあるのです。
 キリスト教の異端と言われるグループに、モルモン教がありますが、モルモン教は、どのように始まったかご存知でしょうか。聖書の地獄の教えに躓いた人によって始められたのが、モルモン教の起こりだと言われています。モルモン教では、地獄の存在を否定しています。聖書の教えに反したことを教えているのです。それゆえに、キリスト教の異端とされています。
 地獄の教えというのは、私たちにとっても、受け入れがたい教えかもしれません。すべての人が天国に入ることができたら良いと考えるからです。
 しかし、聖書は、そのようには教えていません。イエスさまは、すべての人が救われて天国に入ることを願っておられます。そして、イエスさまは、すべての人のすべての罪の身代りに十字架にかかって下さったのです。しかし、すべての人が天国に入ることができるわけではないのです。イエスさまが語る福音を拒否した者は、とても残念ですが、天国へ行くことができないのです。これが聖書の教えるところです。
 しかし、その聖書の教えに躓き、その聖書の教えを否定し、聖書の教えよりも、自分の考え、自分の気持ちを優先する人によって、このような異端が生まれてきたのです。
 このようにお話ししますと、イエスさまが、ペテロを厳しく叱られた理由がお分かりになるのではないでしょうか。  私たちには、順序があります。まず神様を愛する。神様のお考え、神様のご計画に従うことが先です。その次に、隣人を愛するのです。この順序を間違ってしまいますと、聖書の教えを誤って理解したり、否定したりして、誤った信仰理解になり、教会とは言っても、真の教会ではなくなってしまうことがあるのです。私たちは、聖書の教え、福音を伝えて行く時に、福音に水増ししたり、また、一部を語らないということがあってはならないのです。
 イエスさまは、ご自身が十字架への道を進まれることを明らかにし、ペテロをいさめてから、24節以降において、弟子たちに、これからどのように生きるべきかを示しておられます。弟子たちに対して、わたしに従って苦難の道を歩むように招いておられるのです。
 それでは、私たちが、このイエスさまの招きに応えて、従っていくためには、どうしたら良いのでしょうか。それは、「自分を捨て」とありますように、自分を捨てること、つまり、自己中心的な考え方、生き方を捨てることです。この自己中心を捨てることが、信仰生活の基本です。自己中心を捨て、神中心の生き方に転換する。これが信仰生活です。
 私たちは、いつまでも弱く、限界があり、頼りにならないような自己の主体性を意地になって保とうとするのではなく、力強く、無限で、信頼しうるイエスさまに、すべてを任せて行きたいと思います。
 イエスさまは、自分の志を貫いて救い主となられたのではありません。イエスさまは、自分の喜びを捨てて、神のことだけを思い、神の定めに従って歩んで下さったからこそ、まことの救い主となられたのです。
 この方以外には、救いはありません。私たちもこのイエスさまの救いをいただき、救いをいただくだけではなく、イエスさまが歩まれた苦難の道への招きにも、応答していきたいと思います。そして、イエスさまが栄光をお受けになったように、私たちも、主イエスさまから、朽ちることのないいのち、朽ちることのない栄光の冠をいただきたいと思います。
(5月22日 礼拝説教要旨)