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「からし種ほどの信仰」 マタイの福音書17章14〜21節
「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。
どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」   マタイの福音書17章20節


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 一人の人が、イエスさまの近くに来て、イエスさまの前にひざまづいて言いました。「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。」(15節)
 実は、この人は、まずイエスさまの弟子に、息子のてんかんの病気を直してほしいとお願いしました。ところが、弟子たちには、直すことができなかったというのです。
 そんな弟子たちに、イエスさまは、「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」(17節)と言われました。
 イエスさまは、弟子たちの不信仰を嘆かれました。そして、その子どもを連れてくるように言いました。イエスさまが、その病気の原因となっていた悪霊を追い出すと、その子どもの病気は直ったというのです。
 この出来事を見た弟子たちは、そっとイエスさまのもとに来て、イエスさまに聞きました。「なぜ、私たちには悪霊を追い出すことができなかったのですか。」と尋ねました。すると、イエスさまは、「あなたがたの信仰が薄いからです。」(20節)弟子たちの信仰が薄いからだと言われ、続けて「まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」と言われたのでした。
 さて、この出来事を通して、私たちは、何を教えていただくことができるでしょうか。  まず、私たちは、「信仰」ということについて学ぶことができるでしょう。「信仰」とは、何でしょうか?「信仰」とは、イエスさまを信じることです。それでは、イエスさまの何を信じることでしょうか。
 それは、イエスさまが、私たちの罪の身代りに十字架にかかって下さったということを信じることです。しかし、イエスさまを信じるとは、これだけではありません。イエスさまが、私たちの罪のために十字架にかかって下さったということは、言うなれば、イエスさまの過去の御業です。イエスさまが、過去に私たちにして下さったことです。
 しかし、イエスさまを信じるということは、イエスさまがして下さった過去の業だけではありません。現在の業、そして、将来の業、つまり将来、イエスさまが、私たちにして下さるであろう業をも信じる。それが信仰です。信仰とは、過去だけではなく、現在、そして未来のイエスさまの業に期待していく、信頼していく、それが本当の信仰です。
 この聖書個所に登場する一人の人は、自分の息子がてんかんという病気にかかっていたのです。病気といった問題がありますと、私たちの信仰が試されます。将来のキリストの御業に期待する、信頼することができるかどうかということが問われるのです。
 この一人の人は、イエスさまに期待しました。弟子たちは、その息子の病気を直すことができませんでしたが、そこで、あきらめませんでした。「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでいるのです。」そのように、イエスさまに、病気を直してほしいと、キリストの御業に期待して、信じてお願いしたのです。
 さて、イエスさまの弟子たちの信仰は、どうだったでしょうか。弟子たちは、イエスさまから、「不信仰」「信仰が薄い」と言われました。  何故、弟子たちは、このようにイエスさまから言われてしまったのでしょうか。それは、てんかんという病気を直してほしいと頼まれたのに、直すことができなかったからです。
 イエスさまの弟子たちには、すでに悪霊を追い出すという権威が、イエスさまから与えられていました。(マタイ10章1節)しかし、彼らは、その権威、賜物を用いることがなく、そのてんかんの病気を直すことができなかったのです。それで、イエスさまは、弟子たちの不信仰をお責めになったのでした。
 私たちは、いかがでしょうか。私たちにも様々な賜物が与えられていると思います。時間やお金、能力、当たり前のように手足を動かすことができる。それも賜物です。その賜物をどのように用いているでしょうか。  イエスさまは、「からし種ほどの信仰があったら」と言われました。これは、どういう意味でしょうか。「からし種」とは、もっとも小さいものを現わす表現です。イエスさまは、信仰は、小さくても良いと言われました。信仰というのは、小さくても良いのです。大切なことは、信仰があるということです。また、もう一つ大切なことがあります。その信仰が生きている信仰かどうかということです。どんなに大きな信仰を持っていても、死んでいては何にもなりません。口では、どんなに大きなことを言っても、信仰を持って行わなければ何にもなりません。
 イエスさまが、五千人の人々を養われたという、いわゆる「五千人の給食の奇跡」は、どのように起こったのでしょうか。5つのパンと2ひきの魚をささげた少年の信仰、少年の小さいけれども生きた信仰によって、この素晴らしい奇跡が行われたのです。
 イエスさまは、この少年だけでなく、私たちにも賜物を委ねて下さっています。その賜物を、イエスさまに差し出すことができるかどうかということは、その人の信仰にかかっているのです。
 こんな小さなものを差し出して、一体何になるのかと考えて、差し出さないのではなく、主は、私のささげものを、私たちの小さな信仰を幾倍にも祝福して、主の栄光を現わして下さいます。私たちの「イエスさまが最善を成してくださる。」と信じて疑わない心で、私たちに与えられている賜物を喜んでささげていく時に、主がそれらを用いて、御業を豊かになして下さるのです。
 (6月26日 礼拝説教要旨)