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「兄弟を得るために」    マタイの福音書18章15〜20節
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、 柔和な心でその人を正してあげなさい。」                             ガラテヤ人への手紙6章1節   


ムラサキシキブ 夏咲いた花に、秋実がなりました。
 本日の聖書個所には、兄弟(姉妹)が罪を犯した時、どのようにその兄弟(姉妹)を導びけばよいのかが教えられています。これは、イエスさまが、弟子たちに語られた大切な教えです。
 まず、「ふたりだけのところで責めなさい。」(15節後半)と教えられています。直接、本人に話すということです。他の人に、噂話のように話すのではなくて、直接、罪を犯したと思われる人に話すということです。
 「責めなさい。」とは、どういう意味でしょうか。「責めなさい。」という言葉だけを読むと、相手の非を攻撃するようなニュアンスがあります。しかし、そうではありません。「責めなさい。」とは、「光のもとに置く。あらわにする。罪を認めさせる。」という意味があります。
 それでは、具体的には、どのようにすれば良いのでしょうか。ガラテヤ人への手紙6章1節には、「柔和な心で」とあります。感情的になって、相手を責めるのではなく、柔和な心で、優しい表情と聞きやすい言葉で、相手を正してあげるのです。
 責める目的は何でしょうか。何の目的で、相手を責めるのでしょうか。相手の間違いを指摘するためでしょうか。自分の正しさを証明するためでしょうか。自分の腹立たしい思いをぶつけるかのように、相手をやりこめて、ぎゃふんと言わせるためでしょうか。決して、そうではありません。
 その目的は、「あなたは兄弟を得たのです。」(15節後半)とありますように、兄弟を得ることが目的なのです。兄弟が、自分の罪を認めて、悔い改めて、新しい歩みを始める。その手助けをする。それが目的です。
 その他には、どのような配慮が必要でしょうか。ある書物に、兄弟が罪を犯した時、どのようにその兄弟姉妹を導びけばよいのかということが書いてありましたので、紹介させていただきます。
 まず、第一に、相手の良い性格をほめることから始めるということです。いきなり本題に入るのではなくて、まず、相手の良い所をほめるということです。第二に、自分は、あなたの霊的な幸福に関心をいだいており、手助けをしたいと願っているということを伝えるということです。
 第三に、自分の心にかけていることを相手に伝えるのです。ここで初めて、本題の話を始めるのです。
 しかし、それで終わりではありません。その心にかかっていることを伝えてから、自分の理解が正しいかどうかを相手に聞くということです。これもとても大切なことです。私たちは、神様ではありませんから、自分の側ではその出来事を正しく認識しているはずだと思っていても、そうではない場合があるのです。ですから、必ず、心にかかっていることを相手に話した後に、自分の理解が間違っていないかを聞いてみるというのです。すると、その本の著者は、自分の理解が間違っていたということ、誤解であったということが分かったということが、たびたびあったということです。
 ここまでの段階で、その問題の多くは、解決が与えられることでしょう。しかし、聞き入れてもらえなかった場合、どうしたら良いのでしょうか。
 次の段階は、「ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。」(16節)とあります。こうした証人たちが加えられる目的は何でしょうか。
 まず、数人の証人がいることで、その出来事が、偏見ではなく、事実であることを確認することができます。この世の中での裁判でも、複数の証人によって事実の確認をします。また、それだけではありません。複数の者が行くことによって、罪を犯した本人に対して、事の善悪を見極めた上で、強く責めることができます。
 しかし、このことも先にお話ししたように、兄弟を責める目的は、兄弟が自分の罪を素直に認めて、悔い改める。兄弟を得ることが目的であることを忘れてはいけません。
 しかし、それでも兄弟が聞き入れない場合は、どうしたら良いのでしょうか。イエスさまは、教会に告げるように命じています。教会として、その問題を真剣に受け止め、事実を確かめた上で、訴えられた兄弟が、罪を犯したことが、明らかであれば、その兄弟に悔い改めるように、愛によって勧告する必要があるのです。
 17節後半には、さらに、教会の勧告に聞こうとしない人をどのように扱うかが述べられています。ここに、「彼らを異邦人か収税人のように扱いなさい。」とあります。これは、教会の戒規の中で、一番重い「除名」という戒規です。
 人によっては、教会がなぜこのようなことをするのだろうかということで、心を痛める方がおられるかもしれません。また、このイエスさまの言葉を読むと、彼らには、もう悔い改めの機会がないのかという印象を持つ方がいるかもしれません。しかし、決して、そうではありません。
 「彼らを異邦人か収税人のように扱いなさい。」とは、クリスチャン、神の家族として扱わないということです。再び伝道の対象になるということです。しかし、もう一度、真に悔い改めるならば、教会の一員として迎えられるということです。
 そして、19節、20節には、罪を犯した兄弟を回復へと導くために大切なもう一つのことが書かれています。それは祈りです。祈りの中で、その人に対する愛が与えられ、語ることばも示されるのです。
 罪を犯した兄弟をどのように導くのか。これは、個人の課題と言うよりも、教会の課題と言えるでしょう。現在は、まだまだほど遠いかもしれませんが、主イエスさまが教えて下さっているあり方に、私自身も私たちも、そして、私たちの教会も、み言葉の励ましとご聖霊の導きによって、少しでも近づいていきたい。そのように願わされます。

        (9月11日 礼拝説教要旨)