[メッセージ目次へ戻る]
「主をほめたたえ、感謝するために」 申命記8章1〜20節
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」            詩篇103篇2節   


秋の一日陽だまりで、紅葉の公園
 聖書を読んでいきますと、私たちの人生の雛型として、様々な出来事を見ることが出来ます。その最たるものが、出エジプトの出来事と言えるでしょう。
 イスラエル民族が、救世主モーセによって、エジプトから救い出されるという出来事です。イスラエルの民は、エジプトでの奴隷状態から救い出され、荒野を通って、約束の地カナンへ向かって進んでいくのですが、私たちの人生も、モーセに代わる救い主イエス・キリストによって、罪の奴隷状態から救い出され、天国を目指して歩んでいると言えるでしょう。
 エジプトを出たイスラエルの民は、主の助けをいただきながら荒野を進みました。主は彼らのために、マナを降らせました。うずらを送り、肉を食べさせました。苦い水を甘い水に変えました。また、昼には雲の柱を、夜には、火の柱をもって、彼らを導いたのでした。
 それでは、主が、イスラエルの民を、エジプトから救い出された目的は何でしょうか。「あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。」(6節以降)とあります。第一の目的は、イスラエルの民を、良い地、約束の地であるカナンに導き入れるためであります。
 しかし、主の本当の目的はそこにはありません。「あなたが食べて満ち足りたとき、主の賜った良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。」(10節)とあります。
 すなわち、主がイスラエルの民をエジプトから救い出された目的、それは、「神、主をほめたたえる」、言葉を変えて言うと、神礼拝であります。心から主をほめたたえ、主に感謝する、主を礼拝する。そのような者となる。それが主の本当の目的だったのです。
 そのためには、荒野の40年が必要だったのです。日ごとに天から降ってくるマナに養われる必要があったのです。昼には雲の柱によって、暑い日差しから守られ、寒い夜には火の柱で、彼らの歩みを守られ、導かれる必要があったのです。
 この申命記という書物は、これから約束の地カナンに入ろうとしている時に、これまで40年もの長い間、民を導いてきたモーセが語った説教が記されています。これから、いよいよ約束の地に入国する。その心得を、主に代わってモーセが語ったのです。
 モーセは、何を語っているでしょうか。「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」
 モーセが語る第一のことは、それは、荒野の40年間の全行程を覚えていなければならないということです。この全行程とは、どういう行程でしょうか。イスラエルの民が歩いた道順のことでしょうか。そうではありません。主が、荒野の40年、イスラエルの民に、どのように関わって下さったかということです。
 4節をご覧いただくと、「この40年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。」とあります。荒野での生活ですから、日差しや砂ぼこりの中、行進していくのですが、着物はすり切れることなく、足もはれることがなかったというのです。主の守りと助けがあったということです。
 しかし、主の愛は、別の形でも表わされました。5節をご覧ください。「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。」とあります。
 このように主の愛というのは、食べ物を与えたり、水を与えたり、着物を与えたり、足が腫れないようにされたりというような、暖かい配慮だけではありません。主は、愛するがゆえに、自分の子どもを懲らしめることもあるということを忘れてはなりません。
 主は、荒野でイスラエルの民の心を知るために、彼らを試み、苦しめました。しかし、主の守りは確かにありました。それは、当然です。主の目的は、ただ単に、彼らを苦しめるためではなくて、彼らが、その40年の行程を通して、主の口から出る、すべてのもので生きる、ということが分かり、真の神礼拝を回復するためであるからです。
 この8章に記されているモーセの説教のなかで、特に、特徴的な言葉が11節にあります。それは、「気をつけなさい。」という警告の言葉です。どういうことに気をつけるように、と言うのでしょうか。
 それは、まず、「主を忘れることがないように」(11節後半)ということです。また、「あなたがたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。」(14節)ということです。さらに、「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。』と言わないように気をつけなさい。」(17節)とあります。モーセが気を付ける様に、警告していることとは、主を忘れ、高ぶることがないようにということです。
 この荒野の40年を通らせた目的、それは神礼拝の回復のためでした。そして、この神礼拝の最大の妨げとは何でしょうか。それは、高ぶりです。高ぶりとは、神を神として認めない。自分自身を神の座に置くと言うことです。高ぶる心があるならば、神に感謝することはできません。心から礼拝することができないからです。
 つまり、荒野における40年、主のイスラエルの民に対する、様々な取り扱いは、その高ぶる心を打ち砕くためのレッスンでした。私たち人間は、決して自分の力では生きていけません。神と共に、主により頼み、主の導きをいただきながら歩む存在であることを教えるためなのです。
 16節の最後には、「ついには、あなたをしあわせにするためであった。」とあります。イスラエルの民にとって、約束の地への道のりは、主の守りと導きは、確かにありましたが、つらい苦しみの日々でした。
 しかし、それは、彼らが、「高ぶる心が打ち砕かれて、真の神礼拝を回復するため」、「自分は、自分の力によって生きるのではなくて、主と共に歩む者として、造られたことを知るため」の神のレッスンであったのです。それを、教えていただき、神と共に歩む。それが、私たちにとっての真の幸福なのです。
            (10月16日 礼拝説教要旨)