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「最大の喜び」  ルカの福音書10章17〜24節
「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」   ルカの福音書10章20節   


冬の公園
 イエスさまは、伝道する者の心構えを語った後、伝道する者に与えられる喜びについて語りました。
 伝道に派遣された70人がイエスさまのところに帰ってきました。彼らは、その働きの成果をイエスさまに報告しました。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」(10章17節)とあります。イエスさまのお名前を使うと悪霊どもでさえ、私たちに服従するというのです。
 彼らは、イエスさまから委ねられた権威を用いて、イエスさまの名前で命じると、悪霊が服従するという体験をしました。驚くような体験を、イエスさまに喜んで報告したのでした。
 私たちも、自分の関わる働きを通して、人が救いに導かれたり、神様の業がなされるということがあるならば、どんなに嬉しいことでしょうか。家庭集会を通して、人が救いに導かれた。自分の知り合いの方が、教会に来てくれた。教会学校の生徒が、信仰を持った。それは、本当に大きな喜びです。
 しかし、イエスさまは、喜び勇んで帰ってきた弟子たちに言いました。イエスさまは、「伝道の成果を喜ぶのではなくて、天に自分の名が書き記されていることを喜びなさい。」と言われたのでした。
 このイエスさまが言われたことを、誤解しないで頂きたいと思いますが、主の働きのために用いられたということを、全く喜んではいけないということではありません。イエスさまが、このところで言おうとされていることは、弟子とされた者にとって、一番、喜ばなければいけないことは、働きに対する成果ではなく、天に自分の名前が書きしるされていることを喜ぶということです。
 皆さんは、いかがでしょうか。天に自分の名が書きしるされているということに喜びがあるでしょうか。神様の前に自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主と信じる者には、罪の赦しが与えられます。神様の子どもとされ、天に自分の名前が書きしるされるのです。そのことに対する感謝、喜びがあるでしょうか。そこに名前があるということは、天の国民であり、天国に招待されている、招かれているということの証です。
 さて次に、21節をご覧下さい。イエスさまが聖霊によって喜びにあふれて言われたとあります。イエスさまが、ご自分の感情を表現されるという箇所は、聖書の中で、とても珍しく、特に、イエスさまが喜ばれたという箇所は、ほとんどありません。イエスさまは、このところで何を喜んでおられたのでしょうか。一言で言いますと、弟子たちの救いです。
 イエスさまは、彼らに、天に名前が記されていることを喜びなさいと言われましたが、イエスさまにとっては、何よりも弟子たちが救われたということが喜びだったのです。
 それでは、この救いは、どのような者に与えられるのでしょうか。21節を、ご覧いただきますと、「賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。」とあります。
 この世の知恵にたけている学者や知者ではなく、幼子たちとあります。幼子とは、社会的に地位の高くない人、低い人という意味です。確かに、イエスさまが用いられた人々とは、当時の指導者層にあったパリサイ人や律法学者ではありませんでした。
 無力なガリラヤの漁師や収税人たちでした。イエスさまは、幼子のような無力で無知な人々が、ご自分の弟子となり、伝道の働きをするようになったことを喜ばれたのでした。
 どうして、イエスさまは、そのような人々を選ばれたのでしょうか。それは、彼らが、人間的な力を誇らず、ただ、「主を誇る」(Tコリント1:26)ためでした。
 幼子を選ばれたということには、もう一つの意味があります。幼子と言うのは、父親や母親に対して、信頼の心を持って生きています。また、父親や母親と深い人格的なつながりを持って生きています。
 知恵のある者、賢い者というのは、聖書研究をしても、神様について研究しても、なかなか、それだけでは神信頼につながらないことがあります。
 それは、丁度、ある父親について、どんなに調べあげても、その父親の子どもが、親に対し持っているような信頼を伴う、知識を得られないのと同じです。神様を知り、救いを受け入れるためには、情報の分量ではなくて、幼子のような神信頼が必要なのです。
 そして、イエスさまは、弟子たちに対して、まず、伝道する者の心構えを語りました。伝道する者は、多くの苦しみを覚悟しなければなりません。
 しかし、そのような苦しい状況にあっても、心は、苦しみで満ちていてはいけないというのです。大変さ、苦しみに心を向けてはいけません。心は、喜びで満たされる必要があると教えられました。
 この喜びとは、どのような喜びでしょうか。何によって与えられる喜びでしょうか。それは、私たちの名前が、イエス・キリストを救い主として信じる者の名前が、天に書き記されていることの喜びです。罪を赦され、神の子どもとされていることの喜びです。
 そして、イエスさまご自身が、私たちの救いを喜んで下さるのです。私たちが主の働きのために用いられる。そのことも喜んで下さいますが、何よりも、私たちの救いを喜んで下さるのです。
 幼子が両親に全幅の信頼をおいて生きるように、私たちも幼子のような心で、主に全幅の信頼をおいて、生きていきたいと思います。この世の何かにより頼み、自分の内にある何かを誇るものでなく、ただ主にのみ信頼し、ただ主をのみ誇る者として歩んでいきたいと思います。
                   (11月27日 礼拝説教要旨)