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「放蕩息子のたとえ」 ルカの福音書15章11〜32節
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」テモテへの手紙第一2章4節   


バラの花束 ・・寒い冬、色彩の乏しい季節に華やかさと暖かさを感じさせてくれます。・・
 私たちは、この放蕩息子のたとえ話を通して、たとえ話に描かれている父親の姿から、父なる神様が、どのようなお方であるのか。ということを教えていただくことができます。
 また、弟息子や兄息子の姿を通して、私たち人間の弱さや罪深さが、どのようなものであるのか。また、私たちが、幸せな生涯を歩むためにはどうすれば良いのか、ということを教えていただくことができます。
 父なる神様とは、どのようなお方でしょうか。まず、第一に、たとえ話の父親は、弟息子の遺産を分けてほしいという要求に対して、その要求を受け入れています。また、彼が、その分け前を持って、遠い国に行くことを許しているのです。恐らく、父親は、弟息子が、無一文になってしまうことを想像していただろうと思います。
 お金の価値も分からず、父親の愛情も知らず、父親の元で生活することがどれほど恵まれたことかを知らない弟息子、そんな人間が、遠い国に行っても、しばらくすれば財産を使い果たし、生活に行き詰ってしまう。そういう結末が想像できたのではないかと思います。しかし、父親は、弟息子が、遠い国に行くことを許しました。
 それと同じように、父なる神様は、私たちに自由意思を与えて下さっているお方です。私たちには、神様から色々なものが委ねられています。私たちの身体。また時間、お金、賜物などです。そういった物は、すべて神様が与えて下さった、委ねられたものであり、私たち個人のものではありません。それらを用いて、主に仕えるために、神様が委ねて下さったものなのです。
 その委ねられたものをどのように用いるのか、それは、私たちに任されているのです。この放蕩息子のように、一時の快楽のためにも使うことができますし、自分のためだけに使うこともできます。また、父を喜ばすことのために用いることもできます。神様は、父親が、弟息子に、財産の分けまえを与え、遠い国に行くことを許したように、私たちに対しても、身体や時間、お金や賜物を与えて下さり、用い方には口を出さず、信頼して委ねて下さるお方です。
 第二に、そのように遠い国に行くことを許した父親でしたが、毎日のように、弟息子が帰ってくることを待っていました。父親は、自分からは迎えには行きませんでした。しかし、弟息子が帰ってくることを待ち望んでいたのです。
 それと同じように、父なる神様も、私たち人間が、自らの意志と決断を持って神様に立ち返ることを待ち望んでおられるのです。信仰を強制されることはありません。私たちが、自分からイエス・キリストを救い主として信じて、神に立ち返ることを望んでおられるお方です。
 第三に、父親は、我に返り、悔い改めて帰ってきた弟息子を、心から喜びあたたかく迎えています。それと同じように、父なる神様も、罪を悔い改め、父の元に帰る私たち人間を喜び、暖かく迎えてくださるお方です。
 第四に、父親が息子たちとともに生活することを望んでいるように、父なる神様も私たちが、父なる神様の元に帰るだけではなく、その後、共に生きることを望んでおられるのです。 このように、このたとえ話の放蕩息子に対する父親の姿を通して、父なる神様がどのようなお方であるのかを知ることができました。
 また、父親の弟息子に対する態度とともに、兄息子に対する態度や言葉を通しても、父なる神様がどのようなお方であるのかを教えていただくことができます。弟息子が家に帰ってきた時、父親は、大喜びでした。しかし、兄息子は、どうだったでしょうか。兄息子は、家で祝宴が催されているのに、家に入ろうとしませんでした。そして、父親に不満を言っています。 兄息子にとっては、弟ばかりが特別扱いされている。放蕩三昧の生活をして帰って来たのに、どうして、祝宴を開いてもらっているのか、納得がいかなかったのです。そして、まじめに働いている自分に対しては、子山羊一匹くれたことがないと不満を述べているのです。
 しかし、そんな兄息子に対して、父親は言いました。「私のものは、全部お前のものだ。」この言葉を聞いた時、兄息子は、本当に驚いたと思います。父親と言うものは、子どもに自分のもっているもの、良いものは、すべて子どもにあげたいと願う。それが親心だと思います。兄息子は、父親のもとで一生懸命に働く人でした。しかし、自分の父親が自分のことを、どのように見ているのか、理解していなかったようです。
 兄息子は、父親から、「子よ。」と呼ばれています。「しもべ」や「雇い人」ではありません。彼は無条件で子どもです。そして、子どもであるということは、無条件で相続権が与えられているということです。父親も、「私のものはぜんぶおまえのものだ。」とありますように、父が持っているものは、すべていただくことができる。それが子どもなのです。また、「おまえはいつも私といっしょにいる。」とありますように、父と一緒にいるのが、子どもです。
 それと同様に、父なる神様は、子とされた者には、良いものを無条件で与えて下さるお方であり、また、私たちと共に生きることを望んでおられるお方です。弟息子のように、親元を離れて生活するのではなくて、兄息子のように、一緒に生活することを望んでおられるのです。
 人間は、罪人ですから、放っておけば、身を放蕩に持ち崩してしまうでしょう。罪を持っている者は、だれでも、弟息子のように堕落してしまうのです。しかし、そんな弟息子にも転機が与えられました。食べるものがなくなり、誰も省みてくれなくなった時、我に返ったのです。そして、父親の元に変える決心が与えられたのです。今、あなたの前にある困難が、弟息子に与えられた転機となるのではないでしょうか。
 帰らなければならないのは、弟息子だけではありません。私たちも父なる神様の元へ帰ろうではありませんか。父なる神様は、私たちが、帰ってくることを、今か今かと待ち望んでおられるのです。私たちを、子として迎えて下さるのです。一番、良い着物を持って、指輪や靴を備えて、祝宴の用意をして待っていて下さるのです。そして、子としてのプレゼントを与えて下さるのです。罪の赦し、永遠のいのち、天国へのキップ、新しい霊のからだを与えて下さると約束して下さっているのです。どうか、その恵みに与っていただきたいと思います。
                                           (2012年2月19日 礼拝説教要旨)