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「エリヤへの励まし」  T列王記19章1〜18節
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」    ピリピ人への手紙2章13節   


桜 春、新しい出発を祝ってくれているように思えます
 エリヤとは、「主こそ、神である」という意味の言葉です。エリヤは、その名前にふさわしく、主こそが真の神様であることを、証する素晴しい預言者でありました。
 エリヤは、ケリテ川のほとりでからすに養われたり、ツァレファテでは、やもめに養われました。また、エリヤは450人のバアルの預言者に勝利しました。バアルの預言者が、どんなに大勢で熱心に祈っても、祈りが聞かれなかったのに対して、エリヤが主に祈ると、その祈りが聞かれたのです。
 エリヤは、このような数々の奇跡的な主の守り、養いを経験しました。しかし、王女イゼベルの言葉で、急に気弱になってしまったのです。どうしてでしょうか。
 それは、これまでエリヤが経験してきたことは、主の業であるにも関わらず、自分が行った業のように思ってしまったということがあるのではないでしょうか。
 エリヤがからすによって養われたこと、やもめによって養われたのは、エリヤの業でしょうか。そうではありません。主の業です。2、3年、雨が降らなかった事は、450人の預言者に勝利できたのは、エリヤの業でしょうか。そうではありません。主が、エリヤの祈りを聞いて下さったのです。これらはすべて、主の業です。もちろん、エリヤが、主の業に用いられたことには変わりがありません。しかし、すべては、主のご計画の中で行われた主の業なのです。
 ところが、エリヤは、いつのまにか主の業でありながら、自分の業のように思い、そして、主の業を、自分の責任と感じ、これまでは、何とかうまく行ったが、これからは自分次第だ。自分の頑張り次第だと考えるようになってしまったのだと思います。そして、その責任の重さ、王女イゼベルのいのちを取るという言葉に、耐えられなくなり、その責任から解かれたいと言う一心から、逃亡することになったのです。
 3節に「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うために立ち去った。」とあります。また、4節をご覧いただくと、彼は、「私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」とあります。
 ここに、行き詰った時の人間の心理状態が良く表れています。私たちにそれぞれ、色々な責任が与えられています。一人の人間、または社会人としての責任、夫・妻としての責任、父親・母親としての責任、牧師や信徒、役員としての責任。色々な責任が、私たちに委ねられ、任されています。その責任を果たしていくことに難しさを覚える時、人は、エリヤのように疲れ果て、心沈み、責任から解かれることだけを願うようになるのではないでしょうか。
 エリヤが、ベエル・シェバまで、逃亡したのは、正に、そのための行動です。彼は、恐れて立ち、自分のいのちを救うために、イズレエルからベエル・シェバまで逃げていきました。この間、約150キロあります。そして、さらに、荒野へ1日の道のりを入って行ったとあります。ここが彼にとっての安全圏だったのです。
 さて、このような預言者という働きに疲れ果てたエリヤに対して、主はどのように彼を扱われたのでしょうか。
 エリヤは、5節にありますように、えにしだの木の下で横になり眠りました。そんなエリヤのところに、神様は、御使いを送り、エリヤにパン菓子、飲み物を用意されました。エリヤは、御使いが用意してくれた、パン菓子を食べ、水を飲み、再び横になりました。このように、主は、疲れた者に、十分に休息を取るように、しっかりと栄養のあるものを食べて、十分に睡眠を取るようにして下さるお方です。
 十分な栄養と休息をとったエリヤは、どのようになったでしょうか。「そこで、彼は起きて、食べ、そして、この食べ物に力を得て、四十日、四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。」(8節)とあります。ベエル・シェバからホレブ山までは、約300キロあります。それだけの力をエリヤは、十分に休息し、栄養を取ることで受けることが出来たのです。
 しかし、主はエリヤに対して肉体の休息だけではなく、もう一つのものを与えられました。何か、お分かりになるでしょうか。9節から16節までのところをご覧いただくと、繰り返し出てくる言葉があります。それは、「エリヤよ。ここで何をしているのか。」という言葉です。エリヤは、自分が神様から託されている使命を見失っていたのです。
 エリヤの疲れの原因。その一つは、肉体の疲れがあったでしょう。その疲れを主は使いを送り、パン菓子と水と十分な睡眠で癒されました。疲れのもう一つの原因、それは、自分のなすべきことを、見失っていた事ゆえの疲れであります。
 主は、エリヤに言われました。「外に出て、山の上で主の前に立て。」(11節)主の前に立つように言われました。そして、主は、エリヤにこれから何をすべきかを教えます。一つは、ハザエルに油を注いで、アラムの王とするように。そして、もう一つは、エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とするようにということです。
 私たちも、それぞれの持ち場、立場において、その負わされている責任に押しつぶされそうになり、エリヤのように疲れ果ててしまうことがあるでしょう。
 疲れ果てたエリヤを主はどのように立ち直らせたのでしょうか。一つは、肉体の休息を与えたということです。次に、エリヤを主の前に立たせ、細き御声を聞かせました。そして、これから、何をすべきかを確認させました。
 私たちも、色々な責任の中で、疲れを覚える時があるのではないでしょうか。疲れた時は、十分な休息を取ることが大切です。そして、次に、私たちは、何をすれば良いのか。主の細き御声に聞いていきたいと思います。私たちが、救われてもなお、生かされているということは、まだ、やり残していることがあるということです。神様からの使命が残されているということです。そして、主のしもべとして用いられることを通して、魂の安らぎをいただくとともに、キリストの豊さ、素晴らしさを経験する者とさせていただきたい。そのように願わされます。
                      (2012年3月25日 礼拝説教要旨)