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「神の力にささえられて生きる」    Tコリント2章1〜16節
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」   コリント人への手紙第一2章9節   


ししとう
 コリント教会は、パウロの伝道の働きによって誕生した教会です。ところが、この教会は、様々な問題を抱えている教会でありました。教会内に、何と不品行を行う者がいたり、また、残念なことに、教会内に派閥がありました。
 しかし、パウロは、この教会を神の教会と呼び、何とかコリント教会が抱えている問題に解決が与えられるように願って、この手紙を書きました。  さて、本日の聖書個所において、パウロは、何をコリント教会のクリスチャンに語っているのでしょうか。まず、パウロが語っていることは、伝道の方法です。自分はどのような方法で、コリントで伝道してきたのかということを語っています。伝道は、パウロが、神様から委ねられた務めです。働きです。
 さて、私たちが、私たちに与えられた人生を有意義なものとするために、大切なことがいくつかあります。それは、自分に与えられた務めを知るということです。私たちは、ただ漫然と生きるのではなくて、自分の務めを知って、そのために生きることが大切です。次に、大切なことは、どういうことでしょうか。それは、その務めを、どのように果たしていくのかということです。
 パウロはどのような方法を用いて、神様から任された務めを果たそうとしたのでしょうか。1〜2節のところで、パウロが語っている第一のことは、すぐれた言葉、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしないということ。第二は、十字架につけられた方の他には、何も知らないことを決心したということです。
 以上のことをまとめますと、パウロの伝道方法とは、この世のすぐれた言葉やこの世の知恵を用いないということです。そして、パウロは、十字架につけられたキリスト以外は、宣べ伝えないというだけではなくて、自分の意識の中からも、十字架につけられたキリスト以外、何も知らないことを決心したというのです。
 これは、すごい決断だと思います。普通、私たちが、伝道する時、イエスさまの十字架の話は、少し置いておいて、いきなり福音を語ると言うのではなく、さしさわりのないところから話したほうが良いと考えるのではないかと思います。
 十字架を語ることは、パウロも言っているように、多くの場合、つまずきとなります。なぜならば、十字架の意味を語るためには、人間の罪を語らなければなりません。ですから、多くの人は、福音を語る時に、十字架を語ることに躊躇するということがあるのです。
 ところが、パウロは、十字架につけられたキリスト以外は、宣べ伝えないというだけではなくて、自分の意識の中からも、十字架につけられたキリスト以外、何も知らないことを決心したというのです。
 これは、どういうことでしょうか。彼が決心したことは、一切、自分を頼りとしないということです。自分の知恵や知識、力や経験を頼りにしないということです。
 それでは、パウロは、何を頼りにして、伝道するのでしょうか。4節をご覧ください。ここに、「御霊と御力のあらわれ」とあります。つまり、パウロのこれまでの伝道の成果は、自分の力ではなく、神の御霊、御力によって支えられてきたというのです。
 パウロも、初めからこの生き方ができたわけではありません。彼も自分の力、自分の経験、自分の知識により頼む部分がありました。しかし、パウロは、長い伝道生涯の後半になって決心したのです。神の力によって、伝道の務めを果たそうと決心したのです。
 決心するまでの彼は、どのような人だったでしょうか。弱く、恐れを感じながら生きる人でした。私たちは、自分を頼りとして生きようとする時、自分の弱さを感じ、恐れを覚えるのです。しかし、パウロは、自分の力に頼っていてはダメだと言うことに気付かされたのです。自分の力ではなく、主の力により頼まなければ、主の力によって支えられなければ、この務めを果たすことができないということが分かったのです。
 パウロは、9節において、イザヤ書を引用しまして、神様がなしてくださること、備えて下さるものは、どのようなものか、どれほど素晴しいのかを述べています。神様がなさることは、これまでに、私たちの目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないものとあります。そして、神様は、どのような人に対して、このような配慮をしてくださるのでしょうか。
 ここに書いてありますように、「神を愛する者です。」神様は私たちを愛して下さっています。神様の私たちに対する愛は、変わりません。そして、神を愛する者には、特別な恵みを与えて下さる。特別な計らいをしてくださると言うのです。神を愛する者とは、どのような人でしょうか。神を第一とする人です。神様のお心を知って、神様のお心の通りに生きる人です。神様の使命を果たす人です。
 皆さんは、いかがでしょうか。神様から、自分は特別な計らいを受けていると感じながら生きているでしょうか。そのような人は、幸いです。そうではなくて、自分は、神様からあまり良くしていただいていない。そのように感じている方がおられるでしょうか。もし、そのような方がおられるならば、自分の生き方を、もう一度吟味されることをお勧めします。
 自分は、神の子どもとされているけれども、神様を愛しているだろうか。神様を第一としているだろうか。自分に与えられている務めを果たしているだろうか。そのことを真剣に振り返ることをお勧めします。
 皆さんは、いかがでしょうか。何に支えられて生きているのでしょうか。何に支えられて生きたい、と願っておられるでしょうか。私たちは、神の子どもとされた一人ひとりです。主を信じる、主に信頼して生きる信仰が与えられた一人ひとりです。そのような私たちでありますので、自分の力を頼りとして生きる者ではなく、主の力に支えられて生きたいと思います。
 私たちも決心しようではありませんか。自分の知恵や力ではなく、主の力に支えられて生きること、主の力に支えられて、自分に与えられた務めを果たすことを決意したいと思います。そのような者を、神様は、特別に愛し、特別な計らいをし、ご自身のご栄光を現わして下さるのです。  

(2012年8月12日 礼拝説教要旨)