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「キリスト者への勧め」 Tコリント4章6〜21節  
「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」 コリント人への手紙第一4章20節   


紅 葉
 パウロは、4章14節において、この手紙を書いた目的、パウロ自身のコリント教会のクリスチャンに対する思いを明らかにしています。「私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。」とあります。
 パウロは、コリント教会の産みの親と言える存在です。お腹を痛めて産んだ子どもは、母親にとってかわいい存在です。子どもの幸せを心から願うのが親です。しかし、だからといって甘やかしてばかりいては、子どもは、しっかりした大人として成長することは難しいでしょう。親として子どもを愛するが故に、教えなければいけないことがあるのです。
 パウロは、6節において、「さて、兄弟たち。」と、親しみを込めた呼びかけの言葉をもって語り始めています。「以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、『書かれていることを越えない。』ことを学ぶため」とあります。
 このところにありますように、これまでパウロは、自分とアポロを例にあげて、教えてきました。直接、名ざしで、あなたたちは、どうして○○なのかという風に語ることはありませんでした。
 なぜ、そのようなことを語ったのでしょうか。その理由は、「書かれていることを越えないことを学ぶため」とあります。「書かれていること」とは何でしょうか。それは、聖書に書かれていることと、理解することができるでしょう。
 ここで、パウロが語っていることは、クリスチャンにとっては極当たり前のことです。聖書は、神の言葉であります。クリスチャンとは、聖書を神の言葉と信じる者であります。ですから、クリスチャンは、聖書の教えを越えるようなことがあってはなりません。
 ところが、コリント教会の一部のクリスチャンは、聖書の教えを越えてしまったのです。聖書の教えを越えるとは、どういうことでしょうか。分かりやすく言いますと、聖書よりも自分が上になるということです。聖書の教えていることよりも、自分の考え、自分の思いが上にあるということです。このように、聖書の教えを越えること、聖書より自分が上になることを、何と言うのでしょうか。6節後半にありますように、これが「高慢」ということです。自分自身が、聖書より上にある。すなわち、神様より上になること、それが高慢です。さて、パウロは、6節後半のところで、高慢の罪がどのような形で表れるのかということを述べています。ここに、「一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。」とあります。高慢は、誰かを支持する形で、表現されるのです。コリントの教会の場合は、私はパウロにつく、私はアポロにつく、私はケパにと、自分が誰かの指導者を支持することで、自分もその人と同じグループだということを誇って、高慢になっているのです。
 そして、パウロが、「一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。」と言っていますように、高ぶっている時と言うのは、誰々は、素晴らしいというところで終わらないのです。誰々は、素晴らしいけれども、誰々はだめだというように表現されることが多いのです。
 それでは、どうしてこれが高慢なのでしょうか。それは、人を評価しているからです。コリント教会の場合は、教職者を採点しているのです。人や教職者を採点する、評価することができるのは、私たちでしょうか。いいえ、それは、神様だけです。神様が、裁き主であられ、一人ひとりを裁かれる方なのです。
 さて、パウロは、このような高慢の罪に陥っているコリント教会のクリスチャンに対して、その間違いを教えるために、7節以降で語っています。「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」と語りかけています。
 人間は、裸でこの世に生まれてきます。つまり、私たちが、今、持っているもの、所有しているもの、家や車、電気製品、服やお金、食べ物などは、すべてもらったものです。働いて稼いで買ったといっても、それは、健康があり、仕事があるから働けるのであって、働けるようになったのも、親がすべての必要を満たしてくれて、育ててくれたからです。それなのに、なぜ、もらっていないかのように、つまり、自分自身の力で勝ち得たものであるかのように、誇るのかと言っているのです。
 続いて、パウロは、8節において、「あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。」とあります。これは、パウロの皮肉の言葉です。「私たち抜きで」とは、パウロとは関係なく、キリストとは関係なく、神様とは関係なく、という意味です。
 神の絶対的主権を認めない人たちですから、王さまになっているのです。自分が、一番、偉い人になってしまっているのです。そして、王さまのように、聖書の教えを越えて、人に命令したり、教職者を評価したり、さばいたりしているのです。
 さて、パウロは、今度は、9節以降において、教職者がどのような扱いを受けているのかを語っています。自分が王さまであると勘違いしている人たちから、自分は、どのような扱いを受けてきたのかということです。自分は、この世の見世物、愚か者、弱くて卑しめられている。飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先がない状況にさらされているのです。このパウロの言葉を読む時に、皆さんは、どのように感じられるでしょうか。これは、なかなか、教職者になったものでなければ、分らない気持ちだと思います。
 今日のパウロの言葉は、パウロの愛の薫陶の言葉です。自分の子どもを愛するがゆえに語った言葉です。高慢の罪に陥り、自分が、王さまのようになって、教職者を評価したり、さばいたりしているコリント教会の一部のクリスチャンに対して、語られた言葉です。
 私たちは、王さまではありません。神様によって、憐れみによって救われた者です。すべて与えられたものによって、支えられている、生かされている者です。私たちは、神様の絶対的な主権を覚えて生きたいと思います。自分中心になって、自分の周りを他の人や神様が回ることを求める者ではなくて、神様の周りを、全ての人が、私たちも回っていること、神様中心の世界の中に生かされていることを覚え、謙遜に、また、聖書の教えに聞きながら歩んでいきたいと思います。
         

(2012年10月28日 礼拝説教要旨)