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「安息日の創造」  創世記2章1〜3節  
「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。
それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」  創世記2章3節   


赤いシクラメンから暖かさを感じます
 創世記の第一章には、天地創造について記されております。神は、言葉を発することによって、混沌とした中に秩序を与え、彩りを添えて、この世界を造られました。第一日目から、第六日目に、神は、天と地とそのすべての万象が完成され、第七日目は、その完成を告げると共に、なさっていたすべてのわざを休まれました。
 神は、第七日目にすべてのわざを休まれた。このことを別の表現を用いるならば、神は「安息」を創造されたということです。神は、それまでの六日間で、天地万物を造られました。しかし、第七日目を全く違った日とされたのです。それは六日間のすべてのわざを休まれ、休息する日を造られたのです。
 この世界というのは、創造と安息(回復)という二つのリズムをもって営まれております。一日の中にも昼と夜があります。私たちも日中活動し、夜休みます。それは動物も植物も同じです。なかには夜活動し、昼休むものもおりますが、それぞれ、活動する時、休息を取る時を持って生きているのです。私たち人間も、一生懸命に仕事をしなければならないでしょう。しかし、それと共に休みも取らなければなりません。
 仕事を、休みなくする人を何と言うでしょうか。そういう人のことを、「仕事中毒」と言います。また、「仕事の奴隷」とも言われます。そのように、仕事の奴隷となる生活をしていると、どうなるでしょうか。やがて、肉体も、心も壊れていってしまうのです。働くことは大切なことです。しかし、休み無く働くとどうなるかというと、肉体も心も壊れていってしまうのです。これは作物を育てる土地も同じです。耕地も何年かにいっぺんは休ませる必要があります。私たち人間も真面目に働くことは大切なことです。しかし、それとともに休む時、回復するときが必要なのです。
 本日の聖書箇所にある「休まれた」という言葉の意味は、何もしないということではありません。何もしないでボーとしているということではありません。また、「休まれた」と訳された言葉は、消極的な意味でなく、次の歩みを始めるために、積極的な意味で、「絶つ」「控える」という意味がある言葉です。
 私たちの仕事も、終わりを宣言する時に、そこから新たな歩みが始まるのです。終わりを宣言すると言うことは、勇気のいることでしょう。また、終わりを宣言するためには、それまでの期間、一生懸命に歩まなければなりません。ただ、だらだらと過ごしているならば、いつまでも引きずり、なかなか、終わりを、完成を宣言することはできないでしょう。
 さて、聖書の中には、働きずめの人々が登場いたします。休むことなく、毎日働いていた人々、働かされた人々。誰かお分かりになるでしょうか。それは、イスラエルの民です。彼らはエジプトで、毎日、働かされていた。奴隷の立場にあったのです。
 神は、救いを求めるイスラエルの民をエジプトの地から救い出すために、モーセを遣わしました。それでは神は、何のために彼らを救い出したのでしょうか。毎日毎日、仕事をする。その仕事に、何の喜びも価値も見出すことが出来ず、ただ毎日働く彼らを、何のために救い出したのでしょうか。
 それは、他でもなく、彼らをご自分の子どもとし、神を賛美し、神をあがめる、安息日を守る民とするためです。そのために、奴隷であった彼らを、エジプトの地から救い出したのです。
 このことは、イスラエルの民だけではなく、私たちも同様です。私たちも以前は罪の奴隷でありました。私たちは、罪の奴隷状態から、救い出された一人一人です。神は私たちを神の子としての身分を与えてくださり、私たちが神を賛美し、神をあがめ、安息日を守ることを願っておられるのです。安息の日は、それまでのわざをやめて、休み、回復をいただくときです。神との関係を正すときと言えると思います。その日を神は備えられたのです。
 時々、日曜日は礼拝を守らなければならないと消極的に考えてしまう人がありますが、それはとても残念なことです。私たちには安息が必要なのです。すべてのわざを、離れて休むときが必要なのです。私たちは奴隷ではありません。神の子どもとして、神との関係を正し、回復をいただく必要があるのです。
 3節には、「神はその第七日目を祝福し」とあります。この第七日目は創造主なる神によって祝福された日なのです。創世記の1章には、一日目から六日目までの創造について、記されておりますが、そのところには、どの日も祝福されたとは記されておりません。
 祝福されたのは、第七日目、安息日だけが、神によって祝福された特別な日なのです。祝福されるとは、神からの善、恵みをいただくということです。私たちは、主イエスさまが復活された日曜日に、神を礼拝しておりますが、この日は、特別な日なのです。神からの祝福をいただける特別な日なのです。ですから、日曜日に礼拝を守らなければならないと消極的に考えるのではなく、神からの祝福をいただくためにも、この日は、神の前に出て、心から礼拝したいものです。現に、日曜日の礼拝を軽視し、やがて教会を離れ、信仰も捨てて、神様からの祝福を失ってしまった人たちを、私たちは知っています。日曜日の礼拝は、何がなんでも守らなければならない日なのです。
 神は、すべてのわざをおえられ、休まれました。安息日を創造されました。私たちも、この日を聖別して、週ごとに、神に愛されていることを覚え、平安と喜びをいただき、真の安息をいただきたいと思います。
 私たちは、週毎にこの安息をいただくことによって、霊的に支えられ、信仰が支えられるのです。週毎の安息を守り続けることによって、やがて天国へ、永遠の安息に入ることができるのです。神は、私たちに安息を備え、また永遠の安息へと導こうとされているのです。これは、本当にすばらしい神の恵み、祝福です。私たちは本日も、主の御前に集い、共に礼拝をささげています。それは、神からの安息をいただくためなのです。その幸いを覚えつつ、これからも、主の日を、祝福の日として、聖別し、大切にしていきたい。そのように願わされます。  

(2012年11月25日 礼拝説教要旨)