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「神の恵みにとどまる」     使徒13章42〜52節
「・・・ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた。」  使徒の働き13章43節


冬の寒さにも負けずに葉を茂らせている台所のパセリ 
 本日の聖書箇所は、アンテオケ教会から派遣された、パウロとバルナバ、彼らを中心とする第一回伝道旅行の一こまであります。アンテオケを出発したパウロ一行は、まず地中海に浮かぶキプロス島に行きました。その後、その島のパポスという港を出発して、ペルガに渡り、彼ら一行は、ピシデアのアンテオケに行きました。
 彼らは、安息日にユダヤ人の会堂に入りました。すると会堂管理者から、「奨励の言葉があったら、どうぞお話しください。」(15節)と勧められました。そこで、パウロが立ち上がり、手を振りながら、メッセージを語り始めました。
 パウロとバルナバが、会堂を出ると、メッセージが好評だったようで、人々は、彼らのところに来まして、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼みました。「同じこと」とは、脚注を見ますと、「同じことば」とあります。今で言えば、同じメッセージを語ってほしいと願ったのです。
 メッセージを聞いて、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、ふたりについて来ました。 パウロとバルナバは、色々なことを彼らに語ったことと思います。しかし、話された様々な内容の中で、「いつまでも神の恵みにとどまっていなさい。」という言葉だけを、聖書は記しているのです。私は、この勧めの中に、主に喜んでいただける信仰の歩みをするために大切な心得が、このところにあるのではないかと思うのです。
 さて、次の安息日になりました。パウロの語ったメッセージが、よっぽど人々の心を捕らえたのでしょう。当時は、電話も印刷技術もありません。いわゆる口こみで、「ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。」のでした。  ところが、大変なことが起こりました。「ユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。」(45節)とあります。どうしてこの様なことになったのでしょうか。わずか一週間という短い間に、どうして、このような反応に変わってしまったのでしょうか。その原因は、45節にありますように、「ねたみ」でありました。ユダヤ人たちのパウロをねたむ心が、このようにさせてしまったのです。初めは、パウロたちが語るメッセージに関心を持ちました。歓迎しました。ところが、自分たちの会堂に、異邦人を含む、ほとんど町中の人々が、集まって来たのです。彼らもこれほど多くの人々が、それも異邦人までが集まるとは想像していなかったのでしょう。 また、語られているメッセージの内容も彼らの考えとは少し違っていました。ユダヤ人たちの考えは、異邦人が救われるためには、まず割礼を受けて、ユダヤ人の仲間になり、それから信じて救われると考えていました。その様な考えを持っているユダヤ人にとって、今まで自分たちが大切にしてきた割礼を必要としない。信仰によって救われるというパウロの語るメッセージは、受け入れがたいものであったのです。  そのことのゆえに、ユダヤ人たちは、ねたみに燃えて、パウロの語る福音に反対し、口ぎたなくののしり、神の恵みを拒否してしまうことになったのです。
 この「ねたみ」とは、とてもやっかいなものであります。私たちが新聞やテレビのニュースで耳にする多くの事件も、人間のねたみが原因のものが少なくありません。このねたみは、この世の中だけではなく、教会に集う私たちも十分に警戒しなければならないものです。
 「ねたみ」は、どこから生れてくるのでしょうか。それは、自分と他人とを比較するところから生れてくるのでしょう。私たちは、自分と全くかけ離れた人に対してはねたむことはありません。男性は男性に対して、女性は女性に対して、また、自分と同じ世代の人に対して、また、自分と同じ立場にいる人に対して、その人が、自分より優れていたり、自分より大切にされたりすると、その人と比較して、ねたみの心を持つのです。
 パウロやバルナバに対してねたみの心を持った人たちも、「ユダヤ人たち」とだけしか記されておりませんが、恐らくユダヤ教の指導的な立場にあった人たちでしょう。そんな彼らにとっては、パウロやバルナバの活躍は、嬉しくない事、自分たちの立場が脅かされることであったのです。
 このような弱さのある者たちに、聖書は何と教えているでしょうか。「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、・・・・・」(Tペテロ2:1〜)とあります。このところで、教えられていることは、まず、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てるようにということです。また、積極的には、純粋なみことばの乳を慕い求めるようにということです。さらに、生ける石として、霊の家に築き上げられるように、教会の一員として、教会において生きた働きをするように、神様のご計画のうちに生きるようにと勧められています。
 一人ひとりが、神様から任されている働きを知って、それに喜んで取り組んでいる時は、周囲の人がどうであるかとか、人の評価・・・。そういったことは気にならないし、人をねたむことはありません。ユダヤ人たちが、何故ねたみに燃えたかといえば、神様から与えられている働きが何であるかが分からないために、自分たちのしている働きに喜びを見出せなかったからです。教会における奉仕も同じではないでしょうか。主が、自分に与えて下さった奉仕が分かると、喜びがありますし、人の評価も気になりません。そして、人を見て、ねたむという心からも守られるのです。
 このように、神様のご計画の中、生きることができるということが、恵みなのです。救いの恵みに預かり、それだけではなく、救ってくださった方のために奉仕ができる。救ってくださった方のご計画の一端を担うことができるという事は、恵み以外のなにものでもないと言えないでしょうか。どうか、私たちは、このユダヤ人たちのように、ねたみに燃えて、福音を拒否する者ではなく、ねたみを捨てて、主の恵みの中、主のご計画の中、教会の一員とされた者、生ける石として、与えられた賜物を持って、喜んで主に仕える者とされたいと思います。  

(1月27日 拝説教要旨)